第3回 『本当』の居場所
2006.01.24
昔々の話です。4歳で入園したK君は、毎日一緒だったお母さんと初めて離れた。お母さんもドキドキしながら、園を後にした。K君は?と言えば玄関先でストライキ!「お母さんは外に居るもん。俺お母さんがいい!」とK君。「お母さんはご用が済んだらお迎えに来るからね。中で待っていようね」という声かけに「うそだ!お母さんは外に居るもん!絶対にいるもん。」お母さんが外に居ないことはありえないとK君は主張。「えっ?そうなの?」と私。K君の本当を採用することになった。
泣いていたK君はやっとお母さんが待っているであろう(?)お外へ行ける。泣き止んだK君と一緒にお母さんを探した。公園を探しても、スーパーを探しても、K君のお母さんは何処にも居ない。「探す」という共同作業で心を開いたK君は、笑顔を見せている。頃合をはかり「K君!お母さん何処にも居ないね。お母さんはなんと言ったの?」と質問した。K君は暫く沈黙し一点を見つめて、そして「あのね先生!お母さんはご用があるから保育園で待っててね。ご用が済んだら必ず保育園にお迎えに行くからねって言ってたよ。」私はすぐに「え~そうなの?ご用に行ってるんだ。この辺にはやっぱり居なかったんだ。どうする?」と尋ねてみた。K君はまた、沈黙しやっと「お母さんはお外(近く)に居ないんだね。ご用に行ってるんだね。先生!早く保育園へ戻ろう。僕保育園で待ってないとお母さんは心配するよ。」保育園の玄関で自ら靴を脱いで、K君は遊び始めた。
最初は“お母さんが僕を置いていくわけがない。お母さんはお外で僕を待っている”。というのがK君の中の「本当」で、私の中の「本当」は「お母さんは外にいない(お仕事場に居る)」である。小一時間寄り添うことでお互いの「本当」が一致した。「本当」の居場所はどこだろう?自分の中の本当を押し付けていないだろうか?自分の中の解釈だけで「本当」を押し付けていないだろうか?寄り添うことが大事であることは頭の中では知っている。子どもたちは、「頭で知っていることを体験させ考える機会を与えてくれる」。いつも完敗(乾杯)だ。そうそう、K君はお迎えに来たお母さんと笑顔で再会した。