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園長のお部屋

第2回 ティーガンマラー

2006.01.23

琉球新報2006年1月23日朝刊掲載

私は、職人気質の頑固一徹な父と笑顔が耐えない優しい母、個性豊かな8人の姉妹の大家族で育った。幼い頃、外では怖がりで、うちでは我がままな「内弁慶」の少女だった。好奇心は人一倍。姉に言わせれば「ティーガンマラー」だったそうな。天国にいる父との数ある思い出の一つを書きたいと思う。

うちには昔、時代劇の平次親分が使っていたような木製の火鉢があった。その頃の沖縄の冬は今年のように寒かったと記憶している。だから火鉢にはいつも火がくべられていた。

ある日寒がりの私は火鉢に当たりながら突然、自分の「手」を「描きたくなった」。紙にではなく、ニスが塗られている火鉢の木の部分にである。いけないことは知っていたと思う。躾が厳しい家だったので叱られることも知っていたと思う。けれども幼い私は衝動を抑えることが出来ずに、かなり集中して火鉢の木の部分に鋭利な物でひたすら自分の手を描いていた(傷つけていた!?)。手のひらを書き終えた時、我に返った。「しまった!火鉢を傷つけてしまった。」と私の真後ろに父が立っていた。

父はとても厳しい人だったので、私はサーと血の気が引いた。父の罵声を覚悟した。「どうしよう。叱られる」。うつむいたままの私に父は目を丸くして「ミーコォや、絵が上手だねぇ。本物そっくりな手が書けてるねぇ。すごいさぁ」と褒めてはくれたが、まったく叱らない。職人気質の父は私の行為を「いたずら」と捉えず、本気で「小さな芸術」と認めてくれたのである。幼心に「反省」と「安堵」が広がった。(あとで母にしっかり叱られた)。

40数年経った今でも「ごめんなさいとありがとうの想い」の父との思い出である。自分が母となった今、父のようには中々なれない。娘と私のいろいろな場面の問答を天国の父はどんな顔で見ているのだろう。

「いたずら」なのか、「学び」なのか?「叱る」ことなのか、「受け入れる」のか?いつも叱らないことが良いわけではない。自分の意識がどこにあるかで大きく変わる。深い感性を磨きたい。