第10回 なんくる・・・体験の積み重ね
2006.05.21
琉球新報2006年5月21日朝刊掲載
ある日のモノレール、満席だった。70代くらいのご夫婦が乗ってきたのに誰も席を譲る気配はない。次の瞬間,50代後半くらいの女性が隣席の十代の男の子に軽く合図を送り二人同時に、老夫婦に席を譲った。老夫婦はお互い目を合わせたが、結局座らなかった。10代の男の子は、ばつが悪そうにガムを噛んでいた。
局譲った50代の方は席に座り直したけれど、10代の男の子は近くに居た人の目線を気にしてなのか?老夫婦に座ってほしいからなのか?ため息交じりでガムを噛んで立ち続けていた。見ていた私の頭の中に、様々な思いが浮かんで消えた。
50代の方は何故見知らぬ子も巻き込んで席を譲る行為をしたのか? 10代の男の子は何故“譲ろうとした最初”から “行為を受け止めてもらえなかった最後”までばつが悪そうな態度を取ったのか?老夫婦は何故譲られた席に座らなかったのか?答えは一つではないと思う。意見や主張、考え方などは十人十色あるし、老夫婦の背景も見えないから何故?の答えは無い。
「子どもの頃大人から教わったこと」が「社会の中で自分事として形になる」ために「場の体験」は必要不可欠だと思う。「教え」は「体験」を通して「自分らしい形」へと変化してゆく。教え込んでいく教育もあるが「引くこと」で伝わることもあるのでは?「子どもの場の体験」を取り上げない絶妙なバランス感覚。大人は、自分が生きることはもちろんのこと、子どもたちを育てていく役割も持っている。
あの少年には「席を譲ったこと」が気持ちのいい体験として残ったのか?次回にどうつながっていくのか?なんくる(いつかは出来る)という声も聞こえてくるが、大人が大人としての役目を、放棄しがちな現代社会での「なんくる」に危機感を覚える。譲ってくれた人への素直な意思表示(はい・いいえ)。感謝の念。嘗て子どもだった頃の「豊か思い」を思い出す作業も必要かもと思う。「紙上の教育」では無い「生活の体験からの学びの力」は大きいと思える。なんくるに繋がる。
私自身、「子どもの場の体験」を取り上げていないだろうか?自分を振り返ったある日の出来事だった。