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園長のお部屋

園長先生のお部屋

第13回 十人十色

琉球新報2006年6月23日朝刊掲載

学童のYとGは、大の仲良し二人で「紙で国旗を造ろう」と意気投合した。しかし突然喧嘩が始まった。「Yが俺の紙を側から取り上げる」「Gは紙の使い方がもったいない」それぞれ喧嘩の原因を話し始めた。当然だけど自分の立場からだけの発言だ。Yは「白い紙はもったいないからスーパーのチラシを使ってほしい」と主張。でもGは「白い紙でないと色が塗れないから白い紙がほしい」。

そのやり取りを暫く聞いていた私はある事柄に気づいた。紙の節約でチラシを使ったほうがいい!と主張しているY自身も白い紙を使っているのだ。その矛盾を訊ねてみると「(“節約”は、問題のすり替えで)実は自分ひとりで白い紙全部を使いたかった」がYの本音。Yにはもう一つ言い分があった。「Gは紙を小さく切ってるから大きな紙はいらないでしょう。」するとGは「後でくっつけて切った紙は全部使うからこれで良い」と反論した。

「自分のやり方で造ってみれば?」私の意見を受け入れたYとGは和解し、それぞれの国旗を造り始めた。その後二人を見ていると喧嘩の原因がわかった。YはA3の紙いっぱい使って大きな日の丸を一枚だけ作った。GはA3の紙を小さく切り分けてたくさんの国の国旗を作った。「自分が思う国旗でいいんだよ!ね」と二人は自分も認め、相手の違う感性にもエールを送っていた。

子どもは喧嘩の後共通点や違いを瞬時に受け入れる能力が備わっていると思う。大人の仲裁はほどほどでいい。失敗や意見の違いも立派な「学びの道具」だ。マニュアルなんか無いに等しい。響きあう感性でちょうど良い加減を見つけあえるはずだと思う。大人の目線で「良い子」という言葉でひとつにくくり、喜怒哀楽を封印していることに危機感を覚える。

私自身、日常出会う様々な出来事から「違いを楽しむ、同じを楽しむ」ことを見つめていきたい。(仲々難しい・・・)

半年間、書くことで自分自身と対峙することの大事さを改めて感じた。十人十色という意味が机上の空論にならないよう向きあい続けたい。稚拙な文章でも読んで下さり感謝しています。

第12回 乗れる乗れる乗れた乗れた

琉球新報2006年6月8日朝刊掲載

怖がりだけれど好奇心は人一倍。私は「やってみたい」と思ったことは、チャレンジしていたこどもだった。私の母はどちらかというと「守り」の人で「危ない危ない」を口癖としていた。当然「自転車に乗りたい」と訴えても「あんな危ないものはダメ」という答えだけ。5年生の私は「乗りたいなぁ」の気持ちが強くなり抑えられない。今のように子供用の自転車を誰もが持っている時代ではなかった。

クラスの仲良しのAさんに「みねこちゃん、自転車が乗れるように練習する?」と声をかけられ、放課後決行した。Aさんは家からお父さんの商売道具の配達用自転車を持ち出してきた。ごっつい鉄製の大きな自転車だ。あまりのでかさに圧倒されてすこし退いた。Aさんの「大丈夫!私が後ろからしっかり支えておくから」という力強い言葉と、「乗りたい」という思いが混じり、勇気が湧いて母の目を盗んで“練習”に励んだ。

その時はどうにか乗れるようになった。しかし母の目を盗んでのことなので、自転車が生活の中に入ってきたわけではない。Aさんの自転車は家業の商売道具だし、いつしか自転車に乗ることは、私の脳裏の奥へと収められた。それから9年後の短大時代にやっと本当に自転車が乗れるようになった。北海道の旅の途中で、友人たちの「自転車乗れる?」の質問に「うん」と二つ返事。小学生の時以来自転車を触ったことも無く自信もないのに、つい、ウンと言ってしまった。

旅仲間のNちゃんは民宿のおじさんから自転車を各一台ずつ借りてきた。「乗れるよ」と自己申告した手前、後戻りできない状況。「乗れる乗れる乗れた乗れた」と呪文を唱え、高鳴る心臓を押さえ恐る恐る乗ってみた。助走はかなり長いが“乗れた”一時間も迷走したあと、自信はついた。やってみな!見てみな!上手でなくてもいいじゃん。

こんな精神で落ち穂も書き続けて来た。ヘタクソ文章でも読んで頂いたことへ感謝したい。連載もあと一回でピリオドだ。学びの多い貴重な半年間でした。

第11回 カラーテレビ

琉球新報2006年5月31日朝刊掲載

昔は今のようにテレビ等の電化製品の普及率は低かった。私の家に、白黒テレビがやってきたのは案外早い時期だった。他の電化製品も普通にあった。しかし、世間よりかなり遅く我が家へやってきたものがある。それは“カラーテレビ”である。他の家が殆どカラーテレビに変わっても我が家には小さな白黒テレビしかなかった。故障したら修理して修理して、とうとう買い替え!という時にも白黒テレビを購入した。そのわけは父の考えにある。

染色の仕事をしている父は『色』にはかなり拘っていた。子どもたちがどんなにカラーテレビに変えてほしいと頼み込んでも父は首を縦に振らなかった。父の言い分はこうである

「赤という色一つとってもいろいろな赤がある。自然には微妙に違う赤が存在している。白黒テレビを見ていても頭の中にある色々な色と感じてゆけば記憶の中では総天然色になっている。それを造られた色ばかりを目を通して無防備に脳に入れて行けば「色」に対しての感性が鈍って行く。白黒テレビの中に総天然色の色を想像(創造)して行くほうがいいのだ。あの色は偽者だよ」姉たちは猛反発した。猛反発しても父は譲らなかった。しかし不思議なことに、子どもの頃観た白黒の映像は大人になった今全て『カラー』で思い出す。

父は高い学歴は無いけれど感性が豊かな人だった。自然から学べばいろいろなことが解かる。自然は大きな教室だと言っていた。国際通りに家があるけれど「都会では子どもは育たない」といって時間を見つけては山原や海辺へ連れて行ってくれた。女ばかりの子どもたちへ「これからは男とか女とか無いよ。手に職を持ちなさい。感性を磨きなさい。趣味を持ちなさい。自分を育てなさい」明治生まれとも思えない新しい人だった。愛しい子どもが「どの家もカラーテレビだよ。お父さんは遅れている」と嘆いても子どもの感性を摘み取らないことに徹底していた。明治気質の頑固さは凛としていた。子どもの「ほしい」に自説を曲げなかった父。

安易に子どもの要求に応えることが本当に優しい親なのかどうか、 バランスを試される。

第10回 なんくる・・・体験の積み重ね

琉球新報2006年5月21日朝刊掲載

ある日のモノレール、満席だった。70代くらいのご夫婦が乗ってきたのに誰も席を譲る気配はない。次の瞬間,50代後半くらいの女性が隣席の十代の男の子に軽く合図を送り二人同時に、老夫婦に席を譲った。老夫婦はお互い目を合わせたが、結局座らなかった。10代の男の子は、ばつが悪そうにガムを噛んでいた。

局譲った50代の方は席に座り直したけれど、10代の男の子は近くに居た人の目線を気にしてなのか?老夫婦に座ってほしいからなのか?ため息交じりでガムを噛んで立ち続けていた。見ていた私の頭の中に、様々な思いが浮かんで消えた。

50代の方は何故見知らぬ子も巻き込んで席を譲る行為をしたのか? 10代の男の子は何故“譲ろうとした最初”から “行為を受け止めてもらえなかった最後”までばつが悪そうな態度を取ったのか?老夫婦は何故譲られた席に座らなかったのか?答えは一つではないと思う。意見や主張、考え方などは十人十色あるし、老夫婦の背景も見えないから何故?の答えは無い。

「子どもの頃大人から教わったこと」が「社会の中で自分事として形になる」ために「場の体験」は必要不可欠だと思う。「教え」は「体験」を通して「自分らしい形」へと変化してゆく。教え込んでいく教育もあるが「引くこと」で伝わることもあるのでは?「子どもの場の体験」を取り上げない絶妙なバランス感覚。大人は、自分が生きることはもちろんのこと、子どもたちを育てていく役割も持っている。

あの少年には「席を譲ったこと」が気持ちのいい体験として残ったのか?次回にどうつながっていくのか?なんくる(いつかは出来る)という声も聞こえてくるが、大人が大人としての役目を、放棄しがちな現代社会での「なんくる」に危機感を覚える。譲ってくれた人への素直な意思表示(はい・いいえ)。感謝の念。嘗て子どもだった頃の「豊か思い」を思い出す作業も必要かもと思う。「紙上の教育」では無い「生活の体験からの学びの力」は大きいと思える。なんくるに繋がる。

私自身、「子どもの場の体験」を取り上げていないだろうか?自分を振り返ったある日の出来事だった。

第9回 アイスキャンディー論

琉球新報2006年5月31日朝刊掲載

8人姉妹の5番目の私と4番目のS姉がきょうだいの「真ん中組」で育った。大人になったある日姉妹が集まって雑談しているとS姉が「姉妹の真ん中はアイスキャンディーと同じだと幼い頃に思っていた」と発言した。「えっ?アイスキャンディー?」「そうあの冷たくておいしい、棒にさして凍らせたアイスキャンディーだ」と言う。

アイスは最初に頭のほうから舐める。チョンチョンと溶け出してくると慌てて下側(棒がさしてある所)を舐める。上下繰り返して舐めているうちに暑さに耐えられず溶けてきたアイスは棒から離れて真ん中は、道路に落ち損をした!だからきょうだいの真ん中はアイスキャンディーと同じだというアイスキャンディー論が生まれたそうな。

「真ん中」で育った方は多分うなずいているのではなかろうか。
確かに洋服もお下がりが多かった。父の出張先からのお土産も姉たちとだいぶ差があった。姉たちと同じのがほしいと言ったら「お姉さんと同じ中学生になったらね」と言われ、中学生になったら「小学生の妹はまだ赤ちゃんでしょ。我慢できないからアナタたちが譲って」と云われた。

上から見たら妹で、下から見たらお姉ちゃんが「真ん中組」なのだ。両親は8人の子どもを育てることで一生懸命で悪気はまったくなかったと思う。まさか、真ん中のアイスが棒から落ちることに例えるなんて!このアイスケーキ論を天国にいる両親が聞いたらびっくりするだろう。

だが心配御無用!我ら真ん中組も他の姉妹に負けず堂々と成長した。いつしか知恵が湧いて、上から見たら妹で下から見たら姉でもあるわけで、見方を変えれば、案外悪い環境でも無い。姉たちよりは厳しさも和らいで妹たちのように守られすぎてもいない。気楽さから手足を伸ばしていたようだ(笑)

確かにアイスキャンディ論は子ども目線では存在する!真ん中組よ、ひねくれること無く堂々と育ってほしい。おっと世渡りの術だけを学び取ってはちと困るよ。親の皆様お気をつけ下さい。

第8回 不安の中身

琉球新報2006年4月17日朝刊掲載

4月は新入園児がママを探して泣いている。私たち大人が「大丈夫だよ。心配しないで」と抱っこしていても不安で不安でたまらない様子!“知らないおばさん”から“大好きな大人”になってもらえるように抱っこで寄り添い、安心波動を送る。慣らし保育で暫くの間はママには短時間でお迎えしてもらっている。

自分が幼い頃のことを思い出した。とてもナチブーで怖がりで小心者だった。予防接種の副作用で高熱を出し一ヶ月も休んで幼稚園卒園式に出られなかった私は、小学校入学式で「幼稚園を卒園しなかったから小学生にはなれないはず」と小さい心を痛めていた。入学式が終わり教室へと移動することになった。教室は運動場のすぐ側の一階。教室の前には白いケント紙に新一年生の名前が張り出してあった。「無い!」やっぱり私の名前はありません!「幼稚園を卒園してないからだ!」そう思い込んでいる私は不安で不安で涙が止まらなかった。

私のあまりの動揺に母は握っている手を離すことなく「大丈夫調べようねぇ」とやさしく言った。と側にいた人が「ここは一組さんだけですよ。ここに名前が載っていなければ、他のクラスにありますよ」と声をかけてくれた。母は「ありがとうございます」深々とと頭を下げ隣のクラスへ私の手をひいた。2組にも無い。3組にも無い。気の弱い私は「幼稚園卒園してないから絶対に無い」と変に確信を持っていた。4組の前に立った母は「あった!みーこは4組だよ」と私の名前を指差して言った。「良かった」不安は一瞬に消え、クラスの中へと入ってゆき担任の先生に名札をつけてもらった。

幼稚園の卒園式に病欠したからといって小学校入学を取り消されるわけは無いのに・・・でも小さい身体で幼い心で真剣にそう思い不安を抱えていた一年生だったのです。その不安の中身に誰か気がついたでしょうか。

人の心は見えません。人の心は読めません。寄り添うということが何であるのか?幼かった頃の自分に問いかけ目の前にいるこの子たちを抱きあげ、子どもたちの“今”に寄り添いたいと思っている。握り締めてくれていた母の手のぬくもりは救いでした。

第7回 雨のカーテン

琉球新報2006年4月1日朝刊掲載

まだオートバイの免許をとったばかりの話です。初心者ライダーの私たちは、山原の林道で道に迷った。林道と書いたけれど初心者で女性ばかりなので、たいそうな林道ではなく、“アスファルトでない山道”くらいに軽く受け取ってほしい。

カンカン照りの真っ青な夏空に白い入道雲!夏です。暑いけどそれもまた、いい!日焼けなんか怖くない年令だった。行く手に一台のオートバイが止まっている。内心「良かった」という思いで近づいた。その瞬間「?」。なんと目の前に雨がザーザーと降っているのだ。オートバイが止まっている所は、カンカン照りで2M先に雨が降っているのです。まるで滝の前に立っているようでした。信じられない光景でした。Uターンすれば「晴」の区域。前に進めば「雨」に突入。雨を前にして、止まっていた見知らぬ1台のオートバイはすばやくUターンして行ってしまいました。若かったわれら女性ライダーは、目を合わせた瞬間うなずき、GO!!3台のバイクは土砂降りの雨の中を選択したのです。

アホやなぁ!と言ってくれるな!若さの馬鹿さなのでしょうねぇ。目は開けて居られない。息はくっるしい。全身びしょ濡れ!Uターンを選択しなかった後悔は先に立ちません。と、突然小降りになり、照りつける太陽の下へ出たのです。なんだったの今のは?生まれて始めての体験でした。思いがけないシャワーの贈り物に「道に迷った不安」は吹っ飛んで、大笑いの3人は再び元気に走りだしました。

南国特有のスコールが通り抜ける瞬間なのでしょう。街中では、片側車線だけ道路が濡れているカタブイの体験は有るけれど、あれほどくっきりと「雨」と「晴れ」が主張しあっている光景を見たことはありません。雨のカーテンを潜り抜けるか・否か? いつ思い出しても不思議な光景でした。

前へ前へと前進し続けた3台のオートバイはまもなく見覚えのある国道に行き着き、迷い道から岐路へたどり着いた。狭い沖縄で良かった(笑)

第6回 失敗が(は)成功のもと!?

琉球新報2006年3月20日朝刊掲載

「失敗が成功の元!?」

いつも元気な中学生4人組は、好きなケーキ思う存分食べる「食べ放題パーティー」を家で開く相談をしている。部活が休みの土曜日に4人で決行する。

「うふふ、今日は食べ放題パーティーなの!超嬉しい」4人は、おしゃれして集まった。

夕方会ったらげっそりしていた。訳を聞くと「食べ放題なんかやるんじゃなかった」とのこと。「最初は甘くておいしくて幸せ気分だったの」「でもだんだんおいしいと感じなくなったの」Aさんは、「私は、残すともったいないから頑張って食べたの」。と言った。「ケーキをそんなに食べて気持ち悪くならなかった?」と聞いてみた。

4人は、口を揃えて「なった!気持ち悪くなったよ」「無理して食べてたらあとで大変だったよ。身体の力が抜けて何もしたくない。暫く座り込んでいたよ」「もうケーキは一生食べない!要らない!」おやおや、大変なことになってます。

中学生たちは口を揃えて言った。「でも今日で気づいた事があったよ。ケーキはね少し食べて、『あ~もう一個ほしいなぁ~』と思うくらいの気持ちが大事なんだてこと!“おいしい~”っていつまでも思うためには、もう少しほしいくらいに留めておいたほうがいいんだよ。」

そういえば昔から「失敗は(が)成功の元」てありましたっけ?体験・体感することは「学び」につながるのですね。

子どもは楽しい事を上手に探し、経験から加減を覚えていくけれど、大人はつい先走ってしまう。マイナス面を知ってるだけに親切に教えてしまう。

人間は「学習能力」が誰にでもある。せっかくの学習の機会を「アブナイアブナイ」「ダメダメ」と呪文を唱えずにやらせてみることも大事だと思う。おっと土台の箍を欠け忘れては「ホントに危ない」。

する必要の無い経験だってたくさんある。その選別が難しい。大人自信もまず自分自身に気づき学びつづけるしかないのだろう。日々が修行中の私です。

第5回 一輪車

琉球新報2006年2月20日朝刊掲載

娘が小学校低学年の時、一輪車の練習を友だち6人と始めた。放課後宿題を済ませ、お向かいの児童館へレッツゴー!友達が一人二人と一輪車が乗れるようになった話と青あざを見せてくれるのが日課となった。

ある日、娘が泣きながら帰ってきた「自転車にも乗れないから一輪車は無理だって皆がいじめる」ということらしい。「自転車に乗れないから少し時間がかかるかも」と私。「母さんまで!ヒドイ」と更に泣きじゃくる。「だって、自転車に乗れないのは事実でしょう。」と問うと「うん!」と小さくうなずいた。「事実は受け止めるしかないよ。でも練習しないで一輪車に乗れる人っていないと思う。生まれて最初から歩ける赤ちゃんを見たことある?」と私。娘は「ううん」と更に小さく首を振る。

1才前後の赤ちゃんは立てたことに喜び、しりもちついても尚も歩こうとする。「頑張ろう」とは思っていないはず。「歩かねば!」なんて思っていないはず。「月齢が低いあの子が先に歩けたから恥ずかしい。絶対歩けるようになるぞぉ」なんて思っちゃいない。ただただ歩けることが歩くことが楽しくて仕方ない。転んでもしりもちついてもただただ歩きたいだけなんだと話した後、「で、どうしたいの?皆がいじめる~って泣いておく?一輪車に乗りたい気持ちある?辞める選択肢だってあるよ。母さんだって一輪車乗れないし。」と問いかけた。

幼い頃から保育園の中で赤ちゃんたちと一緒に育った娘は、暫く沈黙し「そうだよ、たっちゃんだっていつもしりもちついてもニコニコしながら歩く練習してたし。よし!」と言って児童館へ走って行った。もちろんその後、毎日の楽しい苦しい練習の結果、一輪車を乗りこなせるようになり、その秋の保育園&学童の運動会のときは6人全員で「一輪車」を使った演技を自分たちで構成し保護者へ披露してくれた。

拍手喝さいの輪の中で6人全員達成感と喜びで輝いていた。

「最初から歩ける赤ちゃんはいないよ」の声かけに「だって」「でも」「そりゃそうだけど」なんて否定語は一切浮かばなかったピュアな心をいつまでも持ち続けてくれることを願う母です。

第4回 子育ては連弾

琉球新報2006年3月6日朝刊掲載

ピアノ教室のコンサートで「連弾」のプログラムがあった。家族の誰かと一緒に曲を弾くのだ。3ヶ月前に「家族のどなたが一緒にでますか?どれくらい弾けますか?」のアンケートがあり①指一本②片手③どうにか両手④練習すればある程度⑤自信有り。その五つの答えに基づいて先生がその家族に適した連弾用の楽譜を渡す。3ヶ月の練習期間が与えられ、それぞれが家で練習する(もちろん生徒の練習日に一緒に教室へ行って指導を受けてもいい)私も娘と一緒にリスト作のラ・カンパネーラを弾いた。本番では緊張し、めちゃくちゃ音を外したが、それよりなによりとにかく楽しかった。舞台の上ではたくさんの家族の絆を拝見した。「緊張して途中で何度も手が止まる父親をさりげなくフォローしている中学生の娘さん」「幼い弟の速度に合わせながら弾く小学生のお姉ちゃん」「とても上手に弾くお母さんの横で誇らしげに会場の様子をチラチラ見る余裕の幼稚園生の女の子」「先輩後輩の中学生コンビ」その時感じたことは、子どもの気持ち(緊張感や達成感、満足感等など)に寄り添い演奏した体験は良かったなぁと言うこと。本番前のリハーサルのあと娘は「お母さん、弾けてるよ。大丈夫だから(落ち着いたらいいよ)」と言った。親と子の立場が逆?親と子が逆転で子どもの気持ちが解かる(自分の子ども時代を思い出す)時もあると思う。出演したお父さん母さん達は全員緊張していた。何度もピアノの鍵盤の上で指が止まり、やり直ししているお父さんがいた。でも一生懸命最後まで子どもと連弾しようと頑張っていた。その“一生懸命”を子どもたちは見ていると思う。人としての有り方(存在)を感じていると思う。汗を掻きつつ弾き終えたお父さんは「次のコンサートでは何を弾こうか?」と楽しそうに笑っていた。体験・体感から生まれたものは肥やしになる。

親と子の絆は机上の空論では繋げない。毎日が「連弾」なのだと思う。楽しいうれしいコンサートで涙が溢れた記憶が鮮明に残っている。

第3回『本当』の居場所

昔々の話です。4歳で入園したK君は、毎日一緒だったお母さんと初めて離れた。お母さんもドキドキしながら、園を後にした。K君は?と言えば玄関先でストライキ!「お母さんは外に居るもん。俺お母さんがいい!」とK君。「お母さんはご用が済んだらお迎えに来るからね。中で待っていようね」という声かけに「うそだ!お母さんは外に居るもん!絶対にいるもん。」お母さんが外に居ないことはありえないとK君は主張。「えっ?そうなの?」と私。K君の本当を採用することになった。

泣いていたK君はやっとお母さんが待っているであろう(?)お外へ行ける。泣き止んだK君と一緒にお母さんを探した。公園を探しても、スーパーを探しても、K君のお母さんは何処にも居ない。「探す」という共同作業で心を開いたK君は、笑顔を見せている。頃合をはかり「K君!お母さん何処にも居ないね。お母さんはなんと言ったの?」と質問した。K君は暫く沈黙し一点を見つめて、そして「あのね先生!お母さんはご用があるから保育園で待っててね。ご用が済んだら必ず保育園にお迎えに行くからねって言ってたよ。」私はすぐに「え~そうなの?ご用に行ってるんだ。この辺にはやっぱり居なかったんだ。どうする?」と尋ねてみた。K君はまた、沈黙しやっと「お母さんはお外(近く)に居ないんだね。ご用に行ってるんだね。先生!早く保育園へ戻ろう。僕保育園で待ってないとお母さんは心配するよ。」保育園の玄関で自ら靴を脱いで、K君は遊び始めた。

最初は“お母さんが僕を置いていくわけがない。お母さんはお外で僕を待っている”。というのがK君の中の「本当」で、私の中の「本当」は「お母さんは外にいない(お仕事場に居る)」である。小一時間寄り添うことでお互いの「本当」が一致した。「本当」の居場所はどこだろう?自分の中の本当を押し付けていないだろうか?自分の中の解釈だけで「本当」を押し付けていないだろうか?寄り添うことが大事であることは頭の中では知っている。子どもたちは、「頭で知っていることを体験させ考える機会を与えてくれる」。いつも完敗(乾杯)だ。そうそう、K君はお迎えに来たお母さんと笑顔で再会した。

第2回 ティーガンマラー

琉球新報2006年1月23日朝刊掲載

私は、職人気質の頑固一徹な父と笑顔が耐えない優しい母、個性豊かな8人の姉妹の大家族で育った。幼い頃、外では怖がりで、うちでは我がままな「内弁慶」の少女だった。好奇心は人一倍。姉に言わせれば「ティーガンマラー」だったそうな。天国にいる父との数ある思い出の一つを書きたいと思う。

うちには昔、時代劇の平次親分が使っていたような木製の火鉢があった。その頃の沖縄の冬は今年のように寒かったと記憶している。だから火鉢にはいつも火がくべられていた。

ある日寒がりの私は火鉢に当たりながら突然、自分の「手」を「描きたくなった」。紙にではなく、ニスが塗られている火鉢の木の部分にである。いけないことは知っていたと思う。躾が厳しい家だったので叱られることも知っていたと思う。けれども幼い私は衝動を抑えることが出来ずに、かなり集中して火鉢の木の部分に鋭利な物でひたすら自分の手を描いていた(傷つけていた!?)。手のひらを書き終えた時、我に返った。「しまった!火鉢を傷つけてしまった。」と私の真後ろに父が立っていた。

父はとても厳しい人だったので、私はサーと血の気が引いた。父の罵声を覚悟した。「どうしよう。叱られる」。うつむいたままの私に父は目を丸くして「ミーコォや、絵が上手だねぇ。本物そっくりな手が書けてるねぇ。すごいさぁ」と褒めてはくれたが、まったく叱らない。職人気質の父は私の行為を「いたずら」と捉えず、本気で「小さな芸術」と認めてくれたのである。幼心に「反省」と「安堵」が広がった。(あとで母にしっかり叱られた)。

40数年経った今でも「ごめんなさいとありがとうの想い」の父との思い出である。自分が母となった今、父のようには中々なれない。娘と私のいろいろな場面の問答を天国の父はどんな顔で見ているのだろう。

「いたずら」なのか、「学び」なのか?「叱る」ことなのか、「受け入れる」のか?いつも叱らないことが良いわけではない。自分の意識がどこにあるかで大きく変わる。深い感性を磨きたい。

第1回 風はいつもうたってる

琉球新報2006年1月9日朝刊掲載

成人の日、おめでとうございます。20代の頃、50代は高齢だと思っていた。 しかし自分が50代になった今、体力の衰えは感じながらも小学生の頃と変わらない自分もあり 「そうか、いくつになってもたぶんこの種の自分は自分の内に存在し続ける自己なのだ」と思う。昔、父がいつまでも青春と言っていたが、なるほど今ならその意味を理解できる。心と形(言葉)のキャッチボール。下手な文章でも心が表せたらと思う。お付き合い下さい。

幼い頃から空をよく見上げる。虹ともよく会える。 忘れられない虹は娘がまだ幼かったあの日の思い出!所用で大宜味へ向かう路の途中で遭遇した。 西海岸沿いをクネクネと車を走らせていた時「あっ、あの山に虹が架かっている」と 山の斜面を指差すと夫も娘も「ホントだ、きれいだね」とはしゃいでいた。でもその虹はいつもと様子が違っていた。 たくさんの虹が近づいてくるようで、娘は「お母さん、今日は虹の橋をくぐれるかも知れないね」無邪気に喜んでいた。 私は心の中で「虹は光だからくぐれることは不可能だな」と思ったが、「そうだね、くぐりたいね。」と 娘の夢を壊さないように言葉を返していた。ところがどっこい!「えっ?うそ!もしかして虹の橋がホントに存在しているの?くぐれるの?」 私は運転しながら動揺していた。「くぐった!お母さん、いまくぐったよ」。私たちの車は何本もの虹の橋を幾度となく潜り抜けた。 それどころか「お母さん、虹が生まれてる・・・」と娘が指差した海岸線の海の中から虹が生まれて、山の中腹へと向かって架かっていた。 ボコボコボコと音が聞こえるようだった。虹が湧き出ているようだった。幻想的な世界に私たちは上気していた。

風のうたが聴こえますか?と自分自身に常に問いかけいつでもどんなところでも風のうたを聴いていたいと思っている。 しかし忙しさを理由に感性が萎え、言い訳でごまかす日々を送ったりしているとき、自然は大きな贈り物を贈ってくれている。 「風はいつでもうたっているよ」と・・・・・・